<アーカイブ大震災>黒い波 町長流される

<アーカイブ大震災>黒い波 町長流される

 2011年3月11日、岩手県大槌町の役場は大津波の直撃を受け、多くの職員が津波に流された。加藤宏暉町長(69)は3月19日に遺体で発見。町職員139人のうち、死亡・行方不明は加藤町長を含め33人に上った。被災時の加藤町長らは当初、「役場で会議中」と伝えられ、後に「役場前で対策会議中だった」とされた。

◎その時 何が(2)庁舎前で会議 はしごに殺到(岩手・大槌町)

直線距離で海岸から約300メートル。海辺に近い岩手県大槌町役場で、加藤宏暉町長(69)は3月11日午後、2階の執務室で机に向かっていた。
2時46分、庁舎を強い揺れが襲った。電気は突然消え、備え付けロッカーの扉がバタンバタンと音を立てて開き、天井から蛍光灯が落ちた。
「老朽化した庁舎内は危険だと判断し、災害対策本部は外に置こうと思った」。東梅政昭副町長(66)は振り返る。加藤町長も承諾し、間もなく外へ出てきた。
町の防災無線は大津波警報の発令を知らせていた。「高台へ避難してください」。放送が流れる中で、職員約30人は対策本部の会議準備のため、玄関脇の駐車場に机やいすを並べていた。その時だった。「津波だ」。誰かが叫んだ。遠くに黒い波が迫るのが見えた。
辺りを見渡せば平地。逃げる場所は、庁舎の屋上しかなかった。2階から屋上へ続く幅30センチほどの鉄製はしごには、約60人の職員が殺到した。屋上までたどり着いたのは、東梅副町長ら22人。加藤町長の姿はなかった。

加藤町長は8日後の19日、遺体で見つかった。場所は国道45号バイパス付近。役場から北へ約500メートルも離れていた。
町の地域防災計画によると、震度5弱以上の地震が発生したり、津波警報が発令されたりした場合には、町長を本部長とする災害対策本部を設置すると定めている。庁舎が使えない状態のときは、西へ直線で約400メートル離れた高台にある中央公民館に本部を設置するとも記されている。
しかし、庁舎が使用不可能となる想定は、職員の意識には薄かった。毎年3月に実施する町民との避難訓練で、中央公民館に本部を設置したのは数年前の1度きりだ。
「中央公民館に本部を置くことは私も含め、職員にあまり浸透していなかった」。東梅副町長はうつむきながら明かす。

これまでの被災経験が、判断を誤らせたとの指摘もある。
2008年6月に岩手・宮城内陸地震、同7月には大槌町新町で震度5強を観測した岩手沿岸北部地震があった。昨年2月末のチリ大地震では、1.45メートルの津波を大槌漁港で目の当たりにした。
中堅職員の男性は本音を漏らす。「いつも庁舎に本部を置いて事足りてきたし、まさか防潮堤を越える津波が来るとは誰も思っていなかった」
庁舎があるのは、県の津波シミュレーションの浸水区域だ。51年前のチリ地震津波でも床上浸水した経験を持つ。
東梅副町長は悔やむ。「いつの間にか職員の間で、危機感や防災意識が薄れていたのかもしれない」
プレハブの仮庁舎は、大槌小の校庭に建てられた。罹災(りさい)証明書の発行は4月27日にようやく可能になった。新庁舎をどこに建てるのか。先はまだ見えない。(岩崎かおり、剣持雄治、菊間深哉)
◆         ◆         ◆
2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。