復興への道をひた走る――「商人の町」女川の挑戦

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  • 岩本室佳 (「ポリタス」編集)
  • 2015年3月11日
  • 【撮影:初沢亜利】
  • 【撮影:初沢亜利】
  • 【撮影:初沢亜利】
  • 山田康人室長(左)と小松洋介氏(右)【撮影:初沢亜利】

東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県牡鹿郡女川町。県北東部、北上山地と太平洋が交わる美しいリアス式海岸を望む小さな港町が、今注目を集めている。東北の被災地では生活基盤の再建が今なお困難を極め、多くの被災者が仮住まいを強いられているなか、女川で民間がリードを握る復興計画が進んでいた。なぜ女川だけが、巨大防潮堤を選ばなかったのか――海と共に生きる道を取ったその独自の取り組みを取材した。

女川復興のシンボル、多機能水産加工センター「マスカー」

2012年10月、女川町に津波を受け流す新しい構造の水産加工センター「マスカー」が完成した。潮の満ち引きを利用する中東カタールの伝統漁法から命名されたこの冷凍冷蔵庫は、東日本大震災の被災地復興支援プロジェクトに資金を援助するカタールの基金から20億円の資金助成を受け建設された。日本有数のサンマ漁獲量を誇り、町内総生産90%を水産業が占め、人口の半分が水産業に従事していた女川で、震災からの再生復興のために冷凍冷蔵庫の建設は急務だった。

震災後、女川町で複数の復興プロジェクトに関わる特定非営利活動法人アスヘノキボウの小松洋介代表理事は、当時を振り返りこう語る。

「震災以前は計8万トンの貯蔵庫をそれぞれの水産加工業者が独自に持っている状態でした。それでは平時の運用コストも津波被災時の再建コストも莫大なものになってしまう。今回共同の大きな貯蔵庫が完成し、水産事業者が事業再開に大きな弾みになったのも大きかったと言われています」

手続きに時間のかかる国の補助金ではなく、海外の基金による支援を受けられたことも大きかった。

「もともと女川は官民連携がすごく進んだ土地だったんですが、震災復興も民間のみなさんと行政のみなさんが一緒に議論して決めていくような形を取っていて、カタールの基金を受けて水産加工センターが作れたのも、民間主導で日本財団と女川町の多大な協力を得て実現したことなんです」

【撮影:初沢亜利】

女川町は、東日本大震災で発生した大津波で町の70%の建物が全壊または大規模半壊し、水産加工施設も85%が損壊し約400億円の被害があった。「マスカー」は津波時に外れる外壁構造を持つ高床式で、3階構造の1階に荷さばき所と凍結室、2 階に零下30℃・貯蔵能力6000トンの冷蔵庫、3階には食料や飲料を備蓄できる避難所機能を有し、太陽光パネルによる10kWの自家発電が可能となっている。通常1階に設けられることの多い貯蔵庫を2階に置き、1階で津波の衝撃を逃す仕組みにしているため、被害を最小限にとどめることができるという。巨大で強固なものをひとつ作るのではなく、小さな機械を複数設置することで、1基が故障しても他のものでまかなえるようにするなど、利用者が安心して使用できる環境を設計した。

「防災」ではなく「減災」を課題として建てられたこの新しい水産加工センターの完成により、すでに約1000人の雇用を創出、約130億円の経済効果を見込んでおり、女川の再生復興の礎となっている。

なぜ女川だけが、巨大防潮堤を選ばなかったのか

2011年3月11日、女川町を襲った津波は14.8mにもおよび、高台に位置していた東北電力女川原子力発電所は津波の直撃を免れたものの、市街中心部は壊滅的な被害を受けた。特に港湾地区は地盤沈下が著しく、原型復旧だけでは再生は不可能とされた。しかし女川の基幹産業である水産業の再生が進まないと、町の復興もままならない。

「補助金やいろんな減免措置なんかが出てくるから待とうかっていう話もあったりはしたんですけど、そんなグチとか不安要素を話しているうちにもう始まっちゃったんですよね。行政と話すにしても、民間の団体があった方が良いだろうって」

そう語るのは女川復興連絡協議会(FRK)の立ち上げメンバーのひとり、阿部喜英氏だ。

驚くべきことに、女川では震災発生直後の2011年3月21日に、民間の復興連絡協議会の準備会(旗揚げは2011年4月19日)が立ち上がっていたのだという。ライフラインが断絶し携帯もまったく通じない状況で、水産・観光・商工の女川3大業界の事業者が、口コミだけで集うことになった。

「建物が無くなったと同時に、それまでの仕組みもすべて崩壊してしまったところがあったので、そこをもう一度作りなおすところからのスタートでした。その時点で、昔はこうだった、ってやり方に縛られる必要がなかったのがよかったですよね」

【撮影:初沢亜利】

そして震災から1カ月が経つ頃には行政とFRKの協議が始まり、その際に行われたのは「防潮堤を作るかどうか」の話ではなく「どうすれば町が早期に復興するか」であったという。

「最初は、FRKの方から巨大防潮堤はどうだって持ちかけてみたんです。そうすると嵩上げのために土を盛るのに8年かかると言われました。被災地間競争ではないですが、1日でも早くスタートしなければというのがありましたから、それは無理だね、となるのが早かった。それに巨大防潮堤は裾野が60mにもなるそうだから、こんな狭い町では土地がなくなっちゃう」

津波で被災した東北の沿岸地域のうち、ほとんどの自治体が巨大防潮堤を建てる計画を発表しており、実際に着工している地域も多い。しかし女川町は防潮堤などを整備するハード面の強化だけで完璧な防災をめざすことに限界があるとし、新しい港町づくりの基本理念として「減災」を掲げた。町民の命を守るため「避難するための情報を確実に伝える」「避難のための道路や場所を確保する」というソフト対策にも重点を置くという。現在、女川町震災復興まちづくり事業では、山を切り崩して宅地を造成する際に出た土を、低地の嵩上げに使用して産業用地を作る工事が進んでいる。

行政はどのように考えていたのか。女川町産業振興課産業振興課公民連携室の山田康人室長はこう説明する。

「すべてを千年に一度の津波に対応しようとすると、本当に山をどんどん切り拓かないといけないし、町自体も全部分断されちゃうんです。だったら同じような津波が来て被災したときに、がれきをどかしてすぐトレーラーハウスみたいな仮設の店舗を並べて早期復旧を図れるような配置がいいんじゃないかと、都市計画のなかで考えられているんです」

なぜ女川が一歩先を行けるのか

2015年3月21日にはJR女川駅が再開する。これでJR石巻線の全線が開通することとなり、仙台からも列車で訪れることができるようになる。女川町ではこの日を「新生女川のまちびらき」と位置づけ、記念式典を行う。世界的建築家の坂茂が設計した駅舎はウミネコの羽を広げる様子をイメージした屋根が特徴で、外壁には県産のスギ材を使用する。併設される町営の入浴施設「女川温泉ゆぽっぽ」には、日本画家の千住博が幹を描き公募で集められた花の絵のタイルが埋め込まれた壁画があり、町内外からの利用を見込んでいる。駅のホームからは海が一望でき、駅舎から海岸に向けて伸びる遊歩道沿いにはフューチャーセンターや商店街、祈りの場や震災遺構である女川交番を含む公園などが本格的に整備される予定だ。

【撮影:初沢亜利】

「話し合いを重ねていくうちに、消費だけを目的とした導線にしたくないね、となったんです。水産業体験があったり、女川のものが買える物産センターがあったりという外向けのものと、子どもたちが勉強する場所がだとか、女川の人がおもしろがりそうな県内外の他の地域のものが買えたりする所も作ろうということになっています」(山田室長)

「女川と他の町の何が違うんだっていうと、おそらく『商人の町』だったということなんだと思います。だから僕みたいな、もともと仙台出身で仕事も南三陸とかの沿岸地域でやってはいたものの、震災後にボランティアで通い詰めて移り住んだような『よそ者』でも排除されなかったというか。そして町のサイズがコンパクトで、夜飲みに行くとすぐ顔が見えるので、町のキーパーソンともあっという間につながれるようなところがありました」(小松氏)

山田康人室長(左)と小松洋介氏(右)【撮影:初沢亜利】

FRKで水産・観光・商工の3業界から人が集まって会議をする際に、まず示し合わせたのは「すべての産業はつながっている」ということだった。良い水産物や商品がある所に企業や観光客が惹かれてやってくる。そうやって全部がつながっているのだから町全体の利益を一緒になって考えよう、という意識合わせをしたのだという。商人の町ならではの話だ。

「還暦過ぎたヤツは口を出すな」

女川町のまちづくり計画が、その他の自治体に比べ群を抜いて速い理由がもうひとつある。計画に携わる人の「若さ」だ。

女川のまちづくりは、町の住民・行政・有識者が参加する「女川町復興まちづくりデザイン会議」をはじめ様々な会議の場で、どんな町にすべきか、どこにどんな施設を置くべきか、そこには何が必要かを何度も話し合われてきた。会議は高校生から40代が参加し、「よそ者」である小松氏もメンバーとして関わる。基本的にそれ以上の年長世代はアドバイスを送り、あとは見守るということになっている。

「当時還暦だったFRKの会長が『60代は口を出すな。50代は口を出してもいいけど手は出すな』と言ったんです。一通りの工事が終わって町ができあがるのに最低10年、その町づくりを評価されるまでにはさらに10年かかる。そのときに今の50代60代は責任が取れない。責任を持って町を担っていく若者に任せようと。鳥肌が立ちました」(小松氏)

震災後の2012年、前職から推される形で初当選した須田善明町長もまだ42歳。フットワークは軽く、決断も早い。町長になる以前は県議会議員で、FRKの顧問も務めていた。顔が見えるという意味では、行政と民間の距離が近いというのも女川の特徴だ。

現地の人に話を聞くと、女川は東日本大震災によって破壊され、何もかも失われたかに見えたという。しかしだからこそ、すべてがなくなってしまった後、もう一度始めるしかなかった。

町のサイズがコンパクトで誰の顔もよく見えたこと。商人の町だったからこそ、町全体の利益をみんなで考える場を作れたこと。「若者」と「よそ者」を信じて任せようというリーダーシップがあったこと。そして何より、絶対に復活するという人々の思いがそこにあったこと。

女川だけが正解ではない。しかし、東北が復興する一筋の「光」が、この町を照らしている。

【撮影:初沢亜利】

著者プロフィール

岩本室佳
いわもと・さやか

「ポリタス」編集

広島市出身。東京芸術大学大学院美術研究科修了。合同会社コンテクチュアズ(現株式会社ゲンロン)で『思想地図β』編集に携わった後、4nchor5 la6真鍋大度+石橋素のアシスタントを経て、現在有限会社ネオローグ所属。

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