「万里の長城」の異名を持つ巨大防潮堤に守られてきた岩手県宮古市田老地区。堤防は海岸側と陸側に2重に築かれ、高さ10メートル、総延長2.4キロと国内最大級の規模を誇った。だが、東日本大震災の大津波にあっけなく打ち砕かれ、地区の中心部は壊滅、200人近い死者・行方不明者を出した。
◎その時 何が(19)要塞崩壊(宮古市田老)
「その程度なら、津波が堤防を越えることはない」。2011年3月11日午後3時すぎ、田老町漁協指導課長畠山昌彦さん(43)は漁協ビル3階でラジオを聞き、そう考えた。アナウンサーは緊張した声で「宮古沖で3メートルの津波」と伝えていたが、畠山さんはビルの目の前にある防潮堤に向かった。
地震発生直後、畠山さんはビル内にいた十数人の職員に避難を指示。自分は沖に出ていた船に危険を知らせるため、上司とともに残ることにした。事務所にあった無線機は停電でダウン。携帯電話もつながらず、船の様子が気になっていた。
市の防災行政無線はそのころ、大津波警報発令を知らせていた。市によると、午後3時7分に3メートルの津波予測を伝え、同19分には津波の高さを6メートルに訂正。その6分後に大津波は防潮堤を越え、市街地をのみ込む。
畠山さんは防潮堤で沖の方から押し寄せる津波を目の当たりにし、漁協ビルの3階まで懸命に走って戻った。直後、津波は湾口の防波堤をなぎ倒し、猛スピードで地区中心部に駆けあがった。
防潮堤は、旧田老町で死者・行方不明者911人を出した昭和三陸津波(1933年)を教訓に建設された。陸側の堤防は34年着工、57年完成。海岸側は62年に着工し、78年に完成した。
町を守るようにX字型に整備された高さ10メートルの二つの堤防は、チリ地震津波(1960年)ではその威力を発揮し、町を守ってくれた。
しかし今回、津波はたやすく陸側の堤防も乗り越え、漁協ビルも2階部分が膝まで浸水し、畠山さんらは一時孤立した。
午後4時半ごろ、水門が水圧で押し開かれ、水が徐々に引きだした。畠山さんが外に出てみると、漁協ビルの前には300~400メートル離れた場所にあった住宅が流れ着き、海岸側の堤防は粉々に打ち砕かれていた。
「シュー」「パーン」。がれきの荒野となった中心部で、プロパンガスが漏れて爆発する音が聞こえた。あちこちから火の手が上がり、瞬く間に燃え広がった。流された家の屋根で助けを求める人の姿も見えた。
コンクリートの要塞(ようさい)に守られ、安全だったはずの街の変わり果てた姿。畠山さんは「目の前の出来事が、現実に起きたこととは思えなかった」と振り返る。
人口4434人の田老地区で今回の震災による死者は133人、行方不明者は60人を超える。(5月19日現在)
旧田老町で2005年まで、最後の町長を務めた野中良一さん(75)は言う。「立派な防潮堤があるという安心感から、逃げ遅れた多くの人が亡くなった。残念というよりほかにない」(遠藤正秀)
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2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。