Wiederaufbau nach dem großen Erdbeben – Kraft durch Überlieferungen

2016年07月28日

東日本大震災・三陸海の盆・鎌原観音堂 心を一つにつなぐ

 

東日本大震災・三陸海の盆・鎌原観音堂をつなぐものとは

7月28日

なぜ「三陸海の盆」なのか? 復興と郷土芸能の意味

皆さま、おかげさまで目標の40万円にはだいぶ近づきました。感謝です。ただし、20人の人々が群馬から三陸まで往復する経費は70万円を越すことが見込まれ、「持ち出し」が多く、さらなるご支援をいただけると助かります。

今回は、8月27日に南三陸町で開かれる「三陸海の盆」に、なぜ鎌原観音堂のみなさんをはるばる群馬県嬬恋村からお招きしようとするのか、東日本大震災とその復興、被災した人々にとって、郷土芸能がもつ社会的歴史的に大切な意義などについてお話しましょう。

 

震災直後に踊りを踊った大槌町・臼澤

第1回の「三陸海の盆」は、震災からちょうど5ヶ月の月命日、2011年8月11日に、岩手県大槌町の「まごころ広場」で開かれました。その目的は、犠牲者を弔い、記憶・教訓を語り継いで風化させないことを誓い、被災地と支援地、三陸全体が一体となって供養を捧げるというものです。同時に、各地に伝えられてきた郷土芸能の復活、郷土の復活を願っての「海の盆」でした。

私は残念ながら行かなかったのですが、そのときの様子は、このビデオで垣間みることができます。

 


第1回三陸海の盆(大槌町まごころ広場)

 

そこには、さらに遡るお話がありました。震災から一月やっと経った4月17日、大槌町臼澤で、郷土芸能の鹿子踊りが奉納されました。400年にわたって臼澤の部落の人々が伝承してきた鹿子踊りは、地元の人たちの魂のよりどころ、被災して避難所生活を続ける人々を元気付けようと、臼澤鹿子踊保存会館伝承館の皆さんが発案・実施したものです。

この伝承館は、20年ほど前に、400年近く伝わる踊りを保存するための練習場所、寄り合いとして、住民が自主的に建設し、運用してきた建物です。東北地方には数多くの郷土芸能が継承されていますが、多くは公民館などを拠点としていて、住民が行政の力を借りずに建物を建設・維持しているのは、臼澤の伝承館ぐらいだともいわれます。

 


臼澤鹿子踊伝承館(大槌町)

 

この踊りが、その場にいた大槌町の人たちの心を打ちました。その延長で、5月1日、まだ惨憺たる状態が続いていた大槌の人たちの気持ちを一つにするために、まごころ広場で、「復興の群舞」として、鹿子踊りの復活が宣言されました。

しかし、準備の段階では、「津波に流された肉親がまだ見つかっていない時期に踊りなんて、とてもそんな気にはなれない」、「衣装もない」、「不謹慎ではないか」と、反対する声も強かったそうです。そこを伝承館のリーダーである東梅英夫さんたちが、昔から続いてきた踊りは冠婚葬祭に欠かせないもので、歌詞には死者への弔いも含まれているという話が決め手になったといいます。また、東京から大槌に支援に来ていた山口幸夫氏(当時・社会事業大学)の、アジアでの災害の際に、民族芸能が人々の気持ちを一つにし、復興に果たす役割があると説いたことも大きかったようです。

事実、被災地で実際に踊り見ていた地元の人たちは、涙がこみ上げ、胸を打たれ、それぞれが死者たちを弔い、復興への誓いを強く思ったという。荒れた街に気持ちが戻ってきたというのでしょうか。

復興への心を一つにする郷土芸能

こうした話は、臼澤だけではなく、大槌町の他の部落にも、陸前高田にも女川にも、雄勝にも浪江にも、日本でも有数の郷土芸能の継承地である三陸各地に存在しています。(参考:「被災地における郷土芸能の現状とこれから」)

 

物質的な破壊は、人の心を荒れさせます。復興も、衣・食・住、道路など、物質面を優先させがちとなります。しかし、人々の心が荒れたままでは、復興はなかなか進みません。避難所に住み、物質的に不自由な生活が続いているときに、物質面での米、水、食料、薬などが必要なのは当然ですが、それと同時に、心の安らぎ、ともに涙を流すこと、地域の仲間と一緒になって歌い、踊り、笛を吹いてひとときを過ごす、精神面での拠り所が求められるのだと思います。

 

私自身が最初にその一端に触れたのは、2013年秋、大槌町の仮設住宅のそばの土地に開設された「まごころの郷」に、ドイツからの資金によって小さな家が新築されたお祝いに偶然参加し、棟上げ式に臼澤鹿子踊りが奉納されたのを見たときでした。それまで「郷土芸能」には正直いってまったく興味をもっていませんでした。しかし、そこで見たのは、収穫寸前の黄金色に輝く稲穂を背景に、死者の霊を供養し、新たな建物の完成を祝う踊りで、見事に郷土を表現するものでした。小学生、中学生の子どもたちが真剣に踊っていたのです。

 

三陸地方には、郷土の民俗芸能としての神楽、田楽、獅子舞、鹿子踊り、虎舞、剣舞などなどが、きわめて豊富な種類で伝承され、現在でも四季の祭りや行事の際に、大人も子供も一緒になって踊られ、地域の生活になくてはならない存在となっています。

そのなかでも、臼澤の伝承館は、津波の被害を免れた内陸部にあったことで、沿岸部で家を流され、山に逃げて火災に囲まれて辛うじて逃げてきた人々が大勢駆け込み、避難所としての機能を果たしていたそうです。その背景には、日ごろから町方の子供たちも一緒に鹿子踊りの稽古を受けていたことがあるそうです。

実は、以前であれば、郷土芸能は各集落単位で継承されるもので、他の集落の人には「門外不出」、歌詞の一句でも伝えてはならないという固い掟があったのです。しかし、人口減少が進み、少子化が進んだ最近では、そうした制約を越えて、臼澤では、他地区の子供たちにも積極的に踊りを教えていたのです。それによって、地域での交流があったことで、災害のときの支援、連携へとつながったのです。


昨年夏、六本木ヒルズでの夏祭りに招待された、臼澤鹿子踊り

 

「三陸海の盆」は、2011年の大槌町、2012年には釜石市、2013年大船渡市、2014年山田町と続けられ、2015年には県境を超えて宮城県気仙沼市唐桑の浜で開催され、東北・三陸の復興の重要な推進剤となっています。行政からの補助金もなく、規模は小さめで、地元の人たち、とくに被災した人たちが主な対象で、手作り感満載のイベントです。会場には焼きそばやホタテ焼きなどの屋台も並び、子どもたちからお年寄りまでが、一日出入りしながら楽しまれていきます。

 

なぜ、三陸では教訓が継承されてこなかったのか

三陸では、有史以前から、津波被害が繰り返し起きてきました。しかし、残念ながら、その記録、記憶、教訓は、必ずしも長く語り継がれてはこなかったことも事実です。そのため、明らかに津波が来てもおかしくない海辺にも多くの建物が建てられて、今回の津波に襲われ、多くの人命と財産が失われる結果となりました。

釜石でも気仙沼でも、市の防災課長や教育長、美術館の学芸員の皆さんが、防災対策や津波教育を一所懸命続けてきたはずなのに、「なぜ教訓の伝承/継承が十分にできなかったのか」と、震災後に訪れると、悔やんで語られるのでした。大川小学校でお子さんたちを亡くしたご遺族の皆さんも、「自分の子供はもう帰ってこない。せめて、なぜこんな事故が起きたのか、どうすれば防げたのか、これからの災害への教訓として、全国の人に広く伝え、知って考えてもらいたい」と口々におっしゃいます。

 

230年語り継いだ鎌原村観音堂の皆さん、津波の実体験を聞いて

「供養の意義がいまはじめてわかった」と。

浅間山の大噴火で村の大半の人を亡くした鎌原村の人たちは、助かった人々が結束して、必死の思いで再建・復興を果たしてきました。通常なら、世代が代わり直接の体験をもつ人がいなくなれば、教訓は風化し、記憶は失われます。それが、なぜ鎌原観音堂の人たちだけは、全国でも例外的に、稀有な伝承を今日まで続けられたのでしょうか。

先日、準備のために、「三陸海の盆」実行委員会で奔走されている臼澤良一さん(遠野まごころネット理事長)と一緒に鎌原観音堂を訪問し、奉仕会の皆さんのお話をして頂ききました。300年以上前に建てられ、煤が天井を真っ黒にしている囲炉裏端で、津波で流され辛うじて助かった臼澤さんご自身の被災体験の語りは、遠い祖先がそのような目に遭ったことを思い起こす鎌原の皆さんに、直接伝わったようでした。

9代目の直系の子孫の方は「いままで正直いえば、供養の大切さは、もうひとつわからなかった。今日のお話を聞いて、はじめてその意義がわかった気がした」と言われました。概要、以下です。

 

災害に遭って家もなくなって、家宅も押し潰されちゃってなくなるわけですよね。そういうものを復興する、畑を作る、田んぼを作る、家を作ることのほうが先なのに、それよりもなによりも供養ということが、あの和讃のなかに出てきますよね、その意味が我々にはわからなかったというか、おれはとくにわからなかった。なんでもっと復興が先にならないんだ、と。夜ごと子どもたちの泣き声が聞こえるとか、そういう意味がもう一つわからなかった。それが今のお話を臼澤さんから聞いて、やっと、わかったというか。」

 


観音堂の囲炉裏端で語る臼澤さん(左から2人目)

 

臼澤さんのように苛烈な災害を生き延びた人の語りは貴重です。しかし、年月を経れば、直接体験者は、いずれいなくなります。鎌原観音堂の皆さんは、9世代、10世代を超えての継承をしてこられました。しかし、多くの方は高齢で、後継の皆さんを確保できるかは、難しいというのも事実です。そのとき、現役での災害体験の語りを聞かれることは、もしかすると意味があることかもしれません。

被災者同士、被災地同士の交流と教訓の継承の意義は、きっとあると信じて。

次回は、8月5日に鎌原観音堂で開かれる、天明浅間大噴火の244年法要の様子をお伝えしようと思います。リターンのためのビデオ撮影も予定しています。

引き続き、ご支援のほど、そして共有・拡散のほど、よろしくお願いします。

Shishi Odori

被災地における郷土芸能の現状とこれから -無形文化遺産としての郷土芸能の立ち位置-

公益社団法人全日本郷土芸能協会 事務局
小岩秀太郎

2012年10月20日の釜石まつりにて船上で演じられた南部藩壽松院年行司支配太神楽
(岩手県釜石市)
はじめに
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、祭りや郷土芸能といった無形文化遺産(注)が豊富に伝えられていた東北地方沿岸部が甚大な被害を受け、伝承地のみならず伝承者、用具などの多くが被災した。しかしながら、この2年の間に多くの団体が困難を乗り越え再開を果たした。その雄姿は被災地域のみならず全国の人々に勇気を与え、またそれらが内包する力を再確認し、注目を集めるようになった。
津波や火災は自らの住む地域を跡形もなく破壊し、高台移転や原発は先祖代々伝えられてきた地域を捨てなければならないという苦渋の選択を、突然に強制的に突きつけた。今までと同じ形で伝承をしていくことは不可能に近い。それでも、あれほどの悲惨な経験をすれば「神も仏もない」と思うのが普通なのに、避難所などで供養と鎮魂の芸能が次々と立ち上がったのである。このことは一体何を指し示すのだろうか?大津波を経験しながらも、海に向かい祈りをささげる虎舞や神楽の姿をテレビや新聞を通して目にした方も多いはずだ。
震災後の郷土芸能活動
津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市で「虎(とら)舞(まい)」が舞われたという記事が、震災発生2週間も経たずして新聞に掲載された。震災直後に虎頭(とらがしら)や装束を探し出し、倒壊した家屋や逆さになった消防車が残る公民館の前でわずか12日後に舞われ、また同地区の七夕祭りに使う山車も津波で破壊されたが3日後には地域住民で修理を始めたという内容である。そこには次の印象的な一文があった「ここ10年で祭りがまたやれるとは思ってねぇ。でも、ちょっこりちょっこりやってれば、孫やひ孫の代では復活するべ」(2011年3月26日 朝日新聞夕刊)。被災地における郷土芸能の現状の第一報だったと思うが、ショックや驚きという感情以上に、震災直後で絶望的な中、瓦礫を背景に虎頭を抱えたその写真は「俺たちはこの地に根差して生きてきたんだ、この虎とともに」と言わんばかりの力強さを伝え、今まで感じたことのないほどの勇気と励ましを感じたのだった。郷土芸能や祭りといった形の無い文化にたずさわってきた私たちが、今後どのような活動をしていくべきなのかを導いてくれた記事であった。
大津波そして福島県の原発事故は、郷土芸能や祭りにとっても収拾の目途がつかない壊滅的被害をもたらした。伝承者の死亡や避難による離散、使用する道具や装束の流失や損壊、芸能を受け継ぐ主体である地域コミュニティを一気に崩壊させた。2年が過ぎた今でも、住民の帰還や職場をはじめ生活復興に向けた将来像が描けない状況が続いている地域も福島県をはじめまだまだたくさんある。
そんな中、土地の問題で元の地域から離れた地域に建てられた仮設住宅や遠く離れた親戚知人宅に身を寄せながらも、住民たちが互いに連絡を取り合い、地域の行事や芸能を続けていこうという試みも積極的にみられた。また、地域の崩壊・消滅の危機に直面して改めて地域の歴史、文化、祖先を見直し、次世代、後世に伝えていこうとする動きも、今までにないほど活発化しているように思える。
活動を再開させた虎舞。2012年10月21日釜石まつりにて(岩手県釜石市)活動を再開させた虎舞。2012年10月21日釜石まつりにて(岩手県釜石市)
情報集約と発信
震災後、全日本郷土芸能協会は郷土芸能に関する専門組織として情報収集と周知に取り組んできた。当協会は各県の芸能団体や研究者、愛好者を会員とするネットワーク組織でもある。このネットワークを活用して被災地の郷土芸能の情報の集積にとりかかったが、把握は困難を極めた。会員はじめ情報提供者の行方がなかなかつかめなかったことは仕方がない。しかし儀礼文化学会(東京都)と協働で主に岩手県・宮城県・福島県の被災地域の芸能や祭礼をリストアップした一覧表を作成してみて愕然としたのを覚えている。
なぜなら3県あわせて2,000を超える芸能が伝わっており、その後の調査で岩手県166件、宮城県211件、福島県415件、計792件がなんらかの被災をしている可能性があるという驚くべき結果が出たのである(無形文化遺産情報ネットワーク・2013年2月末時点)。またこの数は、いわゆる市町村が把握しているものだけで、それ以外の例えば各家庭に飾られている獅子頭なども多数存在していたことがさらに把握を困難にした。これは沿岸部の芸能の多くは自治体保護の対象にならない無指定のものであり、また芸能に限った「保存会」形式でないことに要因がある。それは青年団や消防団、契約講(主に宮城県の農漁村部の集落ごとの相互扶助組織。多くは山や施設といった共有財産を保有し、日々の生活の中での助け合いを目的とする。主に青年男子によって構成される)といった地域集団が中心となって組織されており、自治体や研究者の調査研究が手薄な傾向であったため事務局等の連絡系統が不明瞭であった。いずれにせよ、各地の有志・関係者と連絡を密に取り合い、本当に地道な調査によって少しずつリストを埋めていく作業を継続して行ってきたのである。
状況調査をするにあたり、伝承者の被災、用具類の流失や損壊、実施場所や稽古場の被害、住民分散等による実施日・形態の変更、伝承を支える住民の被災等、被災項目は多岐に亘る。また、今後の目途や対応の項目も盛り込んだ情報収集を行ったことで方針を立てやすくなった。集積作業においては、現地関係者からの情報、報道やインターネットの情報、各県の文化財担当部署の協力も得ることができた。これら情報は、全国の芸能関係者に全郷芸会報やWeb、ブログ、ツイッター等で周知発信をすることで、個人はじめ報道関係や企業、助成法人等が関心を持つに至り、被災地内外からの問合せや相談、取材、そして民間による郷土芸能支援活動へと繋がっていったのである。
被災したうごく七夕まつりの用具保管庫(岩手県陸前高田市)(うごく七夕川原祭組提供)被災したうごく七夕まつりの用具保管庫(岩手県陸前高田市)(うごく七夕川原祭組提供)
2012年8月6日うごく七夕まつりの前夜祭にて(岩手県陸前高田市)2012年8月6日うごく七夕まつりの前夜祭にて(岩手県陸前高田市)
支援活動と課題
文化庁主導で震災直後から建物や文書などの有形文化財を救出する「文化財レスキュー」が進む一方、無形の文化財に対する救出や支援に関しては、指針さえもはっきり打ち出されることなくこの2年が過ぎた。一方、民間の団体や企業、ボランティア団体が被災地対応として取り組み始めた支援は瞬く間に効果が出て、この2年間で活動を再開及び再開を希望する団体は300件近い。
このように誰もが予想していなかったスピードで再開がなされた地域がある一方で、福島県の原発被害地域については2年経ってやっと数団体の声が聞こえてきたのみである。いまだその多くは地域住民の行方も分からず、集まる機会や方針決定さえも物理的・金銭的に不可能な現状であり、あるいは時期尚早であるという意見も強くあるようだ。
郷土芸能や祭り、地域行事といった無形の文化遺産の担い手は人であり、人から人へと受け継がれる。これは土地に根差してきたもので、その地で暮らす人々の連帯によって支えられてきた。しかし今回の原発事故や津波による避難は、人々から土地を奪い、連帯を破壊し尽くした。この状況の中で復興を目指す地域は、更に強い連帯感を生み出すに違いない。そしてそこにはその地とその住民で受け継がれてきた芸能や祭りが中心に据えられるのだ。原発地域住民における継承作業は、土地に根差したものでなくなる可能性もあり、解決の方法がなかなか見出せないのだが、それでもごく一部で離れ離れになった住民同士が互いに連絡を取り合おうとしている動きもあり、そこに一縷の希望を見出しつつ、その努力に感服せざるを得ない。こうした動きが見える限り、私たちはほんの少しでも支えになれるよう、長期的に注目し風化防止のための仕組みと対策を急がねばならないだろう。
2012年5月の神社例祭で演じられた雄勝法印神楽。地元住民が押し寄せた(宮城県石巻市)2012年5月の神社例祭で演じられた雄勝法印神楽。地元住民が押し寄せた(宮城県石巻市)
2012年2月19日に避難先の二本松市の仮設住宅で行われた「安波祭」での請戸の田植踊 (福島県浪江町)(請戸芸能保存会提供)2012年2月19日に避難先の二本松市の仮設住宅で行われた「安波祭」での請戸の田植踊
(福島県浪江町)(請戸芸能保存会提供)
無形文化遺産情報ネットワーク
2年が経過してもなお課題山積ではあるが、地域の方が今を生きるための心の支えとなるように、また地域文化が次代へと引き継がれていくように、一般社団法人儀礼文化学会、独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所、独立行政法人防災科学技術研究所、公益社団法人全日本郷土芸能協会が協働で、無形文化遺産の復興・継承支援の事業を推進する「無形文化遺産情報ネットワーク」を2013年3月に立ち上げた。
震災後、儀礼文化学会と全日本郷土芸能協会が中心となって作成してきた被災地域の民俗や祭礼の一覧表をもとに、それぞれの団体が関係する団体や個人に生の情報を寄せてもらい、集まった情報をもとに必要な支援の呼びかけや仲介、情報の発信を行ってきた。
2年を経過した今、これまで関係者間のみで共有されてきた一覧表を整理し直し、防災科学技術研究所の全面的協力のもと地図の形で公開することにした。行政や民間団体、保存会関係者、研究者、愛好者など、それぞれが持つ情報やネットワークは限られているが、それらを繋げることでより広域的で目の細かいネットワークの構築を図ることができると考えたからである。地図の公開により被災や復興の現状を広く一般に周知するとともに、これまで支援や注目など情報が行き届かなかった地域についての情報も新たに収集し、発信していきたいと考えている。また、これら地域の文化の豊かさを魅力ある発信によって知っていただき、支援者やファンを作っていくことで、文化継承の一助となることを願っている。
現地からの情報はまだまだ足りない。むしろどんどん忘れ去られ風化していく一方である。やむなく休止していた芸能や祭りのモチベーションもどんどん下がりつつある。情報の収集発信を再度推進することで支援や意識の向上に繋がることを期待する。
「情報まどぐち」を随時設置しています。些細な情報でも構いません。是非とも情報をお寄せいただき、また活用していただきたい。
無形文化遺産情報ネットワーク
無形文化遺産情報ネットワーク
無形文化遺産情報ネットワーク:http://mukei311.tobunken.go.jp/
サイト内「情報まどぐち」:http://mukei311.tobunken.go.jp/?module=contact&eid=10243&blk_id=10243
(注)祭り行事や信仰、民俗芸能、様々な慣習、暮らしの技術など、形のない民俗文化を無形の民俗文化と呼ぶ。この無形民俗文化財を含め、次代へと引き継いでいくべき無形の文化を総称して無形文化遺産と呼ぶ。
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東日本大震災・郷土芸能復興支援プロジェクト 支援金募集
(公社)全日本郷土芸能協会では『東日本大震災・郷土芸能復興支援プロジェクト』を立ち上げ、郷土芸能に関する幅広い支援を呼びかけている。
皆さまからの寄付金は、被災地の郷土芸能活動、継承活動への支援金として役立っています。
プロジェクト支援金口座
三菱東京UFJ銀行 赤坂見附支店 普通 0126803
口座名  郷土芸能復興支援プロジェクト
●被災郷土芸能の詳細情報は全郷芸会報(季刊)または全郷芸ブログにてhttp://blog.canpan.info/jfpaa/

 

2. Problem beim Wiederaufbau – Sozialer Wohnungsbau

In Rikuzentakata ist ein Gebäudekomplex bestehend aus 3 acht – und drei 9 geschossigen Apartmenthäusern mit 301 Sozialwohnungen. Wahrscheinlich werden davon 206 bezogen, ca. 25% werden allein lebende ältere Personen sein. 95 Wohnungen werden leerstehen. Die Vereinsamung ist vorprogrammiert.
Ein weiteres Problem ist, dass die Feuerwehr bisher nur Leitern für 15 Meter

hohe Gebäude besitzt (5 stöckige Gebäude). Diese Gebäude sind doppelt so hoch. Die Leitern müssen beschafft werden und die Feuerwehr muss geschult werden.

岩手

<災害公営住宅>コミュニティーづくり模索

2016年08月01日 月曜日

岩手県内最大の災害公営住宅「県営栃ケ沢アパート」

 岩手県陸前高田市で1日、県内最大の災害公営住宅「県営栃ケ沢アパート」の入居が始まる。9階建てと8階建ての2棟で、市全体の3割以上を占める計301戸を整備した。だが、持ち家が中心の市民に高層集合住宅はなじみが薄く、新たなコミュニティーづくりや防災対策が課題となっている。
アパートは高台の市役所仮庁舎近くに立地する。県大船渡土木センターによると、現段階の入居見込みは206世帯。このうち、1人暮らしの高齢者は24.8%に及ぶ。加えて入居者は市内各地から集まるとみられる。
高齢者らの相談に応じる陸前高田市地域包括支援センターの担当者は「都市型の住まいに慣れていたはずの神戸市でも、阪神大震災後に孤独死が出た。嫌になってストレスをためたり引きこもったりしないか」と心配する。
県営のため、住民サービスを担う市に入居者の詳しい情報が入らず、ケアの支障になりかねない。
県は市などと協議し、同意を得た入居世帯全員の氏名と性別、年齢の個人情報を、市や市社協、民生委員に提供することを決めた。
管理人や行政区長、班長の選任、自治会設立、入居者間交流といった課題にも連携して対応する。県大船渡地域振興センター復興推進課の米内敏明課長は「規模が大きく、コミュニティーづくりに危機感を持っている。住民の合意形成を大切に進めたい」と話す。
防災面でも懸念材料がある。東日本大震災前に中高層建物が少なかった市には消防のはしご車がない。栃ケ沢アパートをはじめ、7階以上の災害公営住宅が相次いで建ち、高さ15メートル以上の建物は9棟に増えた。
はしご車の整備については消防庁の指針でおおむね10棟を目安としているが、維持管理を含めた財源や職員態勢の問題もある。
市消防本部によると、災害公営住宅の部屋壁は鉄筋で隣室の延焼を防げるといい、玄関側とベランダ側からそれぞれ水平方向に避難しやすい構造になっている。同本部の担当者は「はしご車がなくても消防隊が支障なく上階に向かえる」と説明。今後は防火講習会を開き、入居者の不安解消に努める。

http://sp.kahoku.co.jp/tohokunews/201608/20160801_33005.html

Großes Problem des Wiederaufbaus – Leerstand der temporären Wohnsiedlungen beträgt 41 %

Große Probleme gibt es immer noch beim Wiederaufbau in Tohoku: 41% der temporären Wohnhäuser stehen leer, da die ehemaligen Bewohner entweder eine neue Wohnung in ihrem Heimatort gefunden haben oder in andere Gegenden abgewandert sind. Ursprünglich sind 50.300 temporäre Wohneinheiten errichtet worden. 2700 davon sind bisher abgerissen worden: in Iwate sind es 1083 von ursprünglich 13.984 Wohneinheiten = 8%, in Miyagi sind es 536 von 22.095 = 2% und in Fukushima sind es 1042 von 16.800 = 6%. Da aber immer noch fast 100.000 Betroffene in Containersiedlungen wohnen, können sie, trotz Leerstands von 41 % nicht abgerissen werden. Die Gemeinden können diese Grundstücke noch nicht wieder nutzen zum allgemeinen Planen. Beim Erdbeben in Kobe konnten 5 Jahre später alle temporären Siedlungen abgerissen werden.
Der Wiederaufbau (Sozialer Wohnungsbau) konnte bis Ende Mai 29.000 Wohnungen aufweisen, das sind 60% der Planung. Ende Juni hatte sich der Leerstand der temporären Wohnanlagen auf 52% erhöht.
In Iwate standen Anfang Juni von 12.901 vorhanden temporären Wohnungen 6.709 leer, das sind 48%.
 
 
仮設の空室半数超 東北被災3県、岩手は実質41%
 
東日本大震災で大きな被害に遭った本県や宮城、福島の3県に建設されたプレハブ仮設住宅の半数以上が現在空室となり、撤去できたのは計約5万3千戸の5%に当たる約2700戸にとどまっていることが28日、分かった。仮設は1棟に複数世帯が暮らす長屋がほとんどで、解体には1棟の全世帯退去が必要なためだ。跡地利用が進まず、空室が増加して住民のつながりが薄れる事態にもなっている。
 
 3県によると、プレハブ仮設の建設は本県が1万3984戸、宮城2万2095戸、福島1万6800戸。撤去されたのは、6月末時点で本県が1083戸で8%、福島は1042戸で6%にとどまる。宮城は536戸で、わずか2%だった。
 
阪神大震災の被災地は、約5年で全てのプレハブ仮設が撤去されている。
 
 復興庁によると、被災者が恒久的に暮らせる賃貸の災害公営住宅は、計画する約2万9600戸のほぼ6割が5月末で完成。プレハブ仮設から公営住宅へ移る被災者が増えるのに伴って仮設の空室は増え続け、6月末時点で総戸数の52%に達した。
 
 本県の仮設住宅は県復興局によると6月末現在、1万2901戸。入居戸数は6709戸で空室率は48%となっている。このうち、倉庫や応援職員らの住居として利用している戸数を除いた実質的な空室率は41・2%という。
Otsuchi 2013

トランペットで大槌の音…きょうCD発売

町中心部を一望する高台でトランペットを吹く臺さん(5月29日、大槌町で)=冨田大介撮影

町中心部を一望する高台でトランペットを吹く臺さん(5月29日、大槌町で)=冨田大介撮影

◆出身・臺さんのジャズバンド

東日本大震災で被災した大槌町出身の臺だい隆裕さん(21)がジャズバンドを結成し、プロのトランペット奏者として一歩を踏み出した。「被災した自分だからこそ伝えられる音がある」と信じ、震災から5年間の思いを込めた自作曲を収録したCDを20日に発売する。(柿沼衣里)

 5月末、かさ上げ工事が進む町中心部を一望する高台で愛用のトランペットを手にした。出身高校の生徒らに演奏を指導するため、自宅がある東京から月1度は通う。津波で自宅は全壊し、両親は町内にあるトレーラーハウスで暮らす。町を見渡し、「懐かしいけど、全然知らない町にも見える。いつも不思議な感覚です」と感慨を語った。

 震災時は大槌高校1年。吹奏楽部の練習中に揺れに襲われた。高台の高校は避難所になり、住民が避難し、遺体も運び込まれた。1枚の毛布を巡って大人がけんかをした。吹奏楽の練習を再開すると、避難者から「うるさい」と心ない言葉を浴びせられた。大好きだった音楽は「空腹を満たすことも、冷えた体を温めることもできない無価値なもの」と思えた。

 震災の3か月後、町内で復興イベントが開かれた。吹奏楽部の一員として震災後初めてステージに上がり、住民の前で演奏した。明るい演歌中心だったが、渇いた喉を潤すように住民が聴き入り、「待ってたよ」「元気が出た」と涙ぐんで声を掛けてきた。「無価値」と思っていた音楽で気持ちがつながった気がし、涙が止まらなかった。「音楽は、物理的には何も満たしてくれない。でも、計り知れない力がある」。高校卒業後の2013年、プロを目指して東京の音楽専門学校に入学した。15年3月の町主催の追悼式典では「ふるさと」をトランペットでソロ演奏した。

 ジャズバンドを結成したのは15年夏。同年春に専門学校を卒業した関東在住のピアノやサックス奏者ら6人でつくった。中心になった臺さんが、大槌の復興への思いを込めてバンド名を

「TSUCHIOTO(槌音つちおと)」と名付けた。CDには、5年間に味わった絶望や希望、音楽への熱い思いを込めた3曲を収録し、力強いリズムを刻む。

 父の隆明さん(54)は震災後、会社員をやめ、被災地の子どもたちの音楽活動を支援する一般社団法人「槌音」の代表をしている。臺さんも将来は大槌に戻り、活動を引き継ぎたいと思っている。「被災経験を音楽で表現するのは誰でもできることじゃない。仲間と一緒に、『槌音』を響かせていきたい」と決意を語った。

 CDは、「槌音」(090・8920・6803)で注文を受け付ける。

2016年06月20日

Message from Women in Ishinomaki, Miyagi Prefecture, Hit by the Great East Japan Earthquake

Photo

JFS Newsletter No.163 (March 2016)
Image photo : Copyright Naomi Chiba All rights reserved.

Five years have passed since the Great East Japan Earthquake. What thoughts do disaster victims have now? How are they living these days? This issue introduces messages from three women, excerpted from a leaflet issued by Naomi Chiba, who continues recording what she hears from women in Ishinomaki, a disaster-afflicted city, about their disaster experiences.


Introduction

On March 11, 2011, the Great East Japan Earthquake caused immense damage in Eastern Japan. The earthquake and tsunami destroyed many valuable buildings, houses and other property, and took many precious lives. In Ishinomaki, Miyagi Prefecture, reconstruction and restoration is now gradually progressing; the city’s appearance has been changing, with roads repaired; plants, companies and stores built or restored; and houses newly constructed. A mountain of problems, however, has hindered construction of public housing for disaster victims, development of land for residential areas and preparation for relocation to higher land. These have not been resolved even after five years have passed. Even so, the victims must continue their daily lives. Time passes relentlessly.

How about matters unseen? What have so-called „disaster victims“ been thinking since the earthquake, and how do they feel about things? How have the women, in particular, been feeling? There are many women who still cannot rebuild their lives and have no choice but to put up with inconveniences. I started listening to their disaster experiences and recording what I heard.

Some of the women stood talking with me for 10 minutes. Others chatted for 30 minutes over tea. Yet others sat for interviews of more than two hours. I started recording what I heard in March 2014, three years after the disaster. I have recorded the stories of a total of 20 women. They are of various ages, differ in their living environments and suffered varying degrees of damage. No two women had the same life, underwent the same disaster experience, or shared the same thoughts or feelings.

Each of the 20 women is the one and only person who lived her own life before the earthquake, and has been living her own life since then. I believe that we can learn something meaningful from their words and pass their wisdom on to the future. Some readers may sympathize with any of the 20 women’s lives, and others may identify themselves with these women.

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Image photo : Copyright Naomi Chiba All rights reserved.

(1) M.N. (in her 60s) May 17, 2014

On March 11, my jewelry store was hit by the tsunami and filled with sludge and rubble. I thought, „My store is ruined.“ Next day, however, I climbed a hill nearby and started to think about what I should do, what I would do and how I should live, and one idea struck me after another. I continued climbing the hill, Mt. Hiyori, each day. A week later, I went back to my store and realized that I was not the only person who had suffered from the tsunami.

I cleaned the mud-covered jewels at my store. While doing so, I came up with the idea of having my customers‘ jewels cleaned, since theirs must have gotten dirty, too. I sent postcards to 300 customers and had them bring their jewels to my store, then sent the jewels to a jewelry-cleaning company by parcel delivery. Later, I returned the clean jewels in beautiful bags or cases to their owners. The jewels were „reborn.“ I just wanted to help them have the jewels cleaned, not to sell products. After the earthquake, I started checking the newspapers for my customers‘ names in lists of fatalities.

I applied to a lottery for shop owner rights on a temporary shopping street and was chosen. I wanted to help others and thought I would do my best with the unique opportunities at hand. If I did something for others that would have made me happy, it would come back to me. I’m the type of person who turns thought into action immediately. I looked for a role for my shop in this town. I consulted with a bank. The bank may have recognized my enthusiasm and motivation. It listened to me and gave me advice. One of the bank employees told me, „I get good vibes from you, so I want to side with you.“ I can continue my business thanks to my customers, employees and people around me. I’m grateful to them. I would like to do something for them. I will go straight into action without hesitation. I believe I can make it. I will open the door by myself to take one small step. When I was in my 30s and 40s I underwent a series of hardships. I have wanted to be economically independent since my earlier years, so I had a neighbor look after my mother-in-law in her house.

My philosophy is live and let live. Don’t compare yourself to others– there is no point in it. „Image“ is important, so I would like to create a decent shop, not an incomplete one, even though it will be open just temporarily. I say, the results will take care of themselves. Little opportunities may lead to strong connections with others. Care about others, because no one can live alone.

For one reason or another, people come to me to have a talk with me. Humans are wonderful. I am happy to be a human. After the earthquake, I learned how to use PCs and went to an announcement training class. I think I have a duty to be of help to someone. It is important for me to help others and face what lies ahead without fail. I had a severe illness when I was 39. Since the age of 60, I have done everything with all my strength every day. My life is full of curiosity. I’m like an eternal girl.

(2) C.D. (in her 60s) March 29, 2014

I sometimes remember the earthquake. In the aftermath, I used an old-type heater for warmth and cooking. I also used an electric heater. I walked or rode a bicycle or car to go places, and realized that physical strength was necessary. It is important to lead a healthy life daily. I cooked miso soup for volunteers and friends who hurried in to help me.

I want to care for the global environment. After the earthquake, I opened up my repaired house to local people and have been hosting gatherings with senior neighbors since then. Through these gatherings, I sometimes hear about things for the first time that happened just after the disaster, such as how my cat behaved when the earthquake occurred. I came to realize the importance of associating with neighbors such as by speaking to them frequently. If I let a neighbor know that I will go out for a while, I don’t have to lock the doors of my house.

I realized I had been kept alive. „To live“ means „to be kept alive.“ I wasn’t killed by the tsunami. The disaster has changed something inside me. I’ve had a stronger urge to do things than before. I also think I should do something for people who died unwillingly. Some died because they happened to be at the beach that day even though their house was in the hills, and others died because after evacuating to higher ground, they thought it would be okay to return to their houses at a lower altitude. Some of my acquaintances survived by evacuating to a place at someone’s beckoning. I ponder over the differences between those who survived and those who died in the disaster. When I consider why I survived, I feel like I have been requested to do something. For others. I ask myself what made the difference between life and death for people who were in the same place at the same time under the same conditions. The disaster may have revealed each person’s nature. I want to consider human nature, ways of life, and what lies ahead.

I’m not attached to material objects any more. My sense of value over what I should care about has changed. Association with people, involvement with neighbors, and considerate words and behaviors toward others are all important. It may also be important to offer a helping hand gently and make good use of one’s imagination. Having a variety of experiences enriches our lives and makes us more compassionate. What we need will come to us when really needed.

We must value nature. The tsunami brought black stinking sludge back to us from the ocean. My husband, son and I had to live together (with three cats) in a tiny room on the second floor of our house for a while, but I was happy and we were of one mind. Candlelight and a battery-powered light were our only sources of illumination. We woke up with the morning sun and went to bed with the sunset. We humans should change our way of life. We should focus on what we have instead of what we don’t have. Nature repairs itself. I will take over a closed cafe one of my acquaintances used to own and reopen it in August 2014.

(3) Y.Z. (in her 60s) June 22, 2014

People in Ishinomaki ignored words carved on a stone monument: „Don’t build houses from this point on to the seaside.“ Forty or fifty years ago, real estate agents would warn of tsunami risks at that location, but there were people who purchased land there anyway. Three years have passed since the disaster, but the reconstruction process is so tough for them.

On the day of the disaster, I thought — as a person who was allowed to live — I should live for people who lost their lives. I lost my neighbors and my house. It can’t be helped. Others also had similar experiences. I saw many dead bodies. I was supported by many people and wonder how I can return the favor to them. I don’t want any material things. Many people told me that being alive was enough even if they had no possessions. I was supported by their words. Certainly, I was also supported by supplies and others‘ hearts. I felt that people who had faith were strong, tender-hearted and gentle.

There is a plan to leave a disaster-stricken elementary school building as it is as a relic of the disaster, but I oppose it. Seeing the building makes me sad and reminds me of the fact that many people lost their lives. I am happy to live with my husband. I should not continue to be sad. Merely reconstructing our house is not the ultimate goal. I want to go see Angkor Wat in Cambodia. Three years — three inexplicable years — have passed since the disaster. I want to start a construction business.

For me, the loss of my elderly sister in 2013 was more painful than the disaster. I want to return the favor of kindness to someone at home or abroad. I am lucky that I have many friends. There are friends I talk with. Alone, a person can do nothing. Trust is important. We can do something about material goods. I have friends who invite me to stay the night.

I use my car not only to get around by myself but also to offer rides to acquaintances who lost their cars. Actually, I got my driver’s license at the age of 45. I completely lost my house, but I’m all right, because I have family. After the disaster, I came to understand humanity and the inner thoughts of others. I was shocked when someone told me, „You had it coming.“ I won’t meet or interact with bad persons. There were also nice people who travelled a long way to bring me rice and miso (fermented bean paste).

I want to live the way I like. I have worked for 20 years, so I have no regrets if I die at any time. I have taken care of others in my own way. Of course, I don’t want to die and leave my husband alone. For men, living alone seems too sad. It does no good to think about it. I will stand up and face problems.

Before the disaster, I was into rings and leather items and had many kimonos, shoes and bags. I’m not interested in them at all anymore. I don’t want to wear rings now. It’s amazing, but there is nothing I want to possess. My desire for possessions is gone. In our earlier years, my husband left on a ship and I raised our children by myself. I left my children in someone’s care to go to work.


In our future newsletters we will introduce others‘ messages, with Ms. Chiba’s hope that their messages will reach women in Japan and elsewhere in the world.

For anyone wanting to contact Ms. Chiba, please email her at: swan20110311@gmail.com

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Image photo : Copyright Naomi Chiba All rights reserved.

Written by Junko Edahiro

NPOs brings university student volunteers to disaster-hit areas

Hiromu Horisaki, second from left, and other university students help untangle old marine-farming equipment in Yamada, Iwate Prefecture. (Mainichi)

YAMADA, Iwate — Over the course of five years, an Iwate Prefecture-based NPO has brought in some 2,700 university student volunteers to areas hit hard by the Great East Japan Earthquake and tsunami, performing various duties according to changing needs.

On March 4 this year in the town of Yamada, Iwate Prefecture, home to an oyster-farming industry, four university students helped out one marine farmer by untangling old, used farming equipment for him. It was no-frills work as they separated out the mixed up nets and wire.

The marine farmer, Tomohiko Sasaki, 41, was thankful, saying, „I do all of the work from harvesting to shipping to market myself, so it helps me out when they take care of this kind of detailed work for me.“ In addition to separating out the equipment, the university students assisted in work to screen the oysters and scallops Sasaki harvested for shipping and to extract the meat from the shells of oysters. In total the students worked for around five hours.

Sasaki says, „Normally I just do this work by myself, silently. Along the beach here are mostly elderly people, so it’s stimulating to be able to talk to young people.“

Similarly, Ayako Yaegashi, 26, head of the NPO Iwate Ginga-Net who argues for the necessity of sustained volunteer activities, says, „There are many elderly people in the disaster-hit areas, and the mere act of young people going there injects the areas with energy.“

The Iwate Ginga-Net NPO also values the opportunity to hear what people like Sasaki who live in the disaster-hit areas have to say. For the students who helped in the marine-farm work, Sasaki brought them with him to the nearby remains of what had been his father’s house before the disaster.

„The tsunami reached up to there,“ Sasaki said, pointing at a hill behind the remains of the house, as the look on the students‘ faces changed.

Hiromu Horisaki, 19, a student at Nihon Fukushi University who was on his second volunteer activity in the disaster area, says, „I participated (in volunteer activities) because I wanted to see the disaster-struck areas with my own eyes. I thought that I had understood the height of the tsunami through hearing the numbers, but actually standing with the tsunami’s aftermath in front of me allowed me to sense its terror directly.“

In 2011, the year of the disasters, Iwate Ginga-Net started a project of sending university students on six-day visits to the disaster areas, timed to match long breaks from university classes, and for around three years, the NPO held events at community halls in temporary housing neighborhoods for volunteers to converse with disaster survivors. However, says Yaegashi, the NPO came to see that they needed specialists who knew how to address disaster survivors‘ problems and help them with their traumatic memories.

Gradually more survivors started returning to their work at sea or in the fields, and the number of participants at the NPO’s social events dropped. Two years ago the events were stopped, and instead Iwate Ginga-Net shifted to things like helping disaster survivors move house from one temporary housing unit to another, or helping local fishermen with their work.

Yaegashi says, „I think the kinds of things students can do for the disaster-hit areas has changed. I think now what they can do is visit the area, hear what the locals have to say, and learn what the current state of affairs is. Through volunteering, students can learn.“

With five years having passed since the disasters, Iwate Ginga-Net has brought to a close its project of regularly bringing in student volunteers from around the country. It will continue to involve local university students in volunteer work, and may bring in student volunteers from other prefectures if there is demand for it. In addition to volunteer work, donations, fundraising and tourism are also ways people can give support.